カール・ポッパー:科学と疑似科学の違い

「これはもうすでに科学的に分かっていることだから」、「私は科学を信じています」、「そうした主張には科学的な根拠がない」などといったように、「科学」という言葉を私達は普段からよく耳にしますが、そもそも科学、または科学的とは何なのでしょうか?

多くの人たちにとって、科学と言うとなにか難しい数学や複雑な理論だとして受け入れられています。それらは、自然現象や私達の身の回りに起きることを説明することができる何らかの仕組みや理論であり、より良く説明することができるものであれば、それがより優れた理論であり、それが科学であるというものです。

しかし、歴史を遡ると、当初は「科学」だと主張されていたが、後になってそれは科学的でも何でもなかった、むしろそれは妄想や思い込み、または机上の空論であったというものが多くあります。例えば、私達人間や社会の問題を「階級」という概念で説明できるとしたマルクス主義の理論がその最たるものです。今となっては完全に間違っていることが明らかになったわけですが、当時は「科学的」であるともてはやされていました。

こうした科学的だと主張されるが、実はそうでないものを疑似科学と言ったりしますが、この2つのものを見分ける何か明確な基準というものはあるのでしょうか?

まさにこの問いに答えようとしたのが「科学の哲学者」、カール・ポッパーです。

この問題に取り組んだ彼は、その基準を「反証可能性」にこそあるとし、「反証可能な仮説」を持っているかどうかが科学と疑似科学を分けると主張しました。

このあたりの話は過去にも「意思決定のための科学的思考」というセミナーなどを通して話してきましたが、最近この「反証可能性」とカール・ポッパーの問題意識をわかりやすくまとめたエッセーを見つけたので、みなさんに紹介したいと思います。

  • Karl Popper: The Line Between Science and Pseudoscience - リンク

以下、翻訳。


一般の人達にとって科学と科学の皮を着た疑似科学の間にある決定的な違いは明らかではありません。

しかし、この違いを知ることは私達人間の知識の基盤を作る上で避けては通れないことです。というのもこの違いは、「どうしたらあることが真実だということを知ることができるのだろうか?」という質問の根幹に関わることだからです。

科学の哲学者、カール・ポッパーはまさにこの問題に興味を持っていました。科学的プロセスとはどう定義できるのだろうか?どうすれば、ある理論があることを説明できるということに関して正しいと言えるのだろうか?

以下は「推測と反駁-科学的知識の発展」という本からの引用です。

今日はこれまでにやったことはないことをすることに決めました。それは、科学の哲学に関してのこれまでの私の仕事をみなさんに報告するということです。この問題に取り組み始めたのは1919年の秋でした。「どのタイミングで、ある理論は科学的だとして位置づけられるのだろうか?」または「ある理論が科学的な性質や属性を持つと言えるための基準は存在するのか?」という問題です。

ポッパーは数多くの理論が非科学的であるということに問題意識を持ちました。多くの理論は見かけ上、質が高く堅牢な科学と多くの特徴を共有しています。しかし、どの理論が科学的手法と言えるもので、どの理論はそうでないのか、どうやって私達は判断したらいいのでしょうか?

これはよく考えてみると、思ったよりも難しいことだったのです。

科学的とは何なのか?

よく言われるのは、科学とはたくさんの観察結果を集め、その中から臼を引くように理論を練りだすものだというものです。「進化論」のチャールズ・ダーウィンは、問題を解決するために長い時間一生懸命働いた後、

「 私の頭は、膨大な量の事実の中から一般的な理論を練りだすためのある種の機械になってしまったようだ。」

と言いました。

これは一般的に受け入れられた科学に対する考えです。私達は観察し、また観察し、さらに観察し、そうして大量に集められた事実に対して、それらを最もうまく説明するための理論を探すというものです。

ポッパーによれば、新しい知識を生成するにはすでに持っている知識から始めざるを得ません。観察はいつも、すでに何らかの仮説が頭の中にある状態で行われるのです。頭の中が完全に真っ白な状態で世界を理解するなんて不可能なのです。

ここで重要な問題は、もし「観察してそこから論理的に理論を導く」という作業がそこで終わってしまえば、ある種の知識、より適切に言うなら疑似科学と呼ばれるべきものが科学的だと考えられてしまうということです。

例えば、占星術師は自らの理論が正しいという「エビデンス(証拠)」をあなたにいくらでも提供することができるでしょう。多くの偉大な人たちがなぜ大事を成し遂げることができたのか、という問いには次のように答えることができます。

例えば、しし座はみんなの注目の中心にいることを求め、野心的で力強く、スポットライトを求める特徴があると言います。その証拠として、実際しし座だった世界的なリーダー、有名人、政治家、などを探し出し、あなたに提示するのです。そうすると、この理論はなんだか正しいように聞こえます。観察結果が理論によって説明されたのです。もしこんなものが科学だというのであればですが。

当時のポッパーが生きていた時代は、フロイトの精神分析の理論やマルクスの社会主義理論が世の中を席巻しているときで、同時にアインシュタインが物理科学の新しい基盤となるものを相対性という概念を使って構築しているときでもありました。そして、ポッパーはこうしたものがみんな同じようなものだとして扱われていることに違和感を持っていたのです。

なぜ、マルクス主義の理論やフロイトの心理学をアインシュタインの相対性理論と同じタイプの知識として扱うことに違和感を覚えたのでしょうか?この3つのものはどれも同じように世の中を説明する力を持っていないというのでしょうか?それぞれの理論を支持する人たちはもちろん持っていると信じるでしょう。しかし、ポッパーは満足しませんでした。

それは1919年の夏でした。私はこれら3つの理論、マルクス主義による歴史に関する理論、フロイトの精神分析の理論、そしてアドラーの個人心理学の理論にだんだんと満足できない感覚を持ち始めたのです。こうした主張を科学的なものとして扱うことに対して疑いを持ち始めたのです。

私の問題は最初はこうした単純なものでした。 「マルクス主義、精神分析、個人心理学の何がいけないというのだろう?こうしたものはなぜニュートン理論や相対性理論のような物理の理論とまるで違うと言えるのだろうか?」

マルクス、フロイト、アドラーに心酔する私の友達たちはこうした理論の共通したいくつかの点に感銘を受けているということに気づきました。特にその明らからな説明能力です。これらの理論はそれが対象としている分野で起きていることであれば、それこそどんなことでも説明できるように見えます。

こうした理論を勉強することは知的な会話ができるようになった気がし、これまで知らなかったことが明らかになったような効果を与えます。まるで、目覚めの儀式を終えてないものたちの目には隠されている新しい真実が自分には見えるようになったかのような効果です。一度目覚めると、そうした理論を確証する事象があらゆるところに見えるようになります。この世の中にはそうした理論を証明するものだらけに見えるのです。

何が起きても、それはいつも自分の支持する理論を確証することになるでしょう。その真実は明らかに見えます。そしてそのことを信じない人たちは、明らかな真実を見たくない人たちというわけです。

彼らが属する階級にとって都合が悪いからなのか、または彼らが心のなかにまだ分析されていない抑圧している何かを抱えているからなのか、いずれにせよ真実を見ることを拒んでいると言うのです。

反証可能の重要さ

ここに明らかな問題があります。

このような「新しい科学」の支持者たちは彼らの理論を証明し確認するものをあらゆるところに見つけます。もしあなたが大人になって何らかの問題を持っていたなら、それはいつも、若い頃にあなたの父親か母親があなたに対して行ったことによって説明できると言います。誰にでも心のなかに抑圧してきたものがあるはずで、もしなかったとしたら、彼らに言わせると「それはまだしっかりと分析できていないから」ということになります。これではまるでコンファメーション・バイアス・マシーンかのようですが。

こうした理論にはいった何が欠けているのでしょうか?

疑似科学の理論は反証することができないのです。

それは合理的な方法で検証することができないのです。

その理論が間違っていると示す反論を表明することができないのです。

本当の科学であれば、次のような記述を簡単に作れます。

「もしXが起きたなら、Yという理論は正しくないと結論づけることができる。」

これで初めて「Xが実際起きるのかどうか」を調べる実験をデザインするすることができます。それは物理的なものかもしれませんし、または単純な思考実験で済むようなものもあるかもしれません。

これは「確認するものを探す」というのとは正反対のことです。理論が間違っていることを示すための試みをしなくてはいけないということなのです。もし、間違っていることが証明できなかったのであれば、その理論はさらに強いものとなります。

ところが、疑似科学にはこれができないし、しようともしません。この手の理論はこうした試みに耐えられるほど強くありません。例として、ポッパーはフロイトの心に関する理論を当時人気のあったアドラーの「個人心理学」との関係の中で話します。

今から、人間の行動を2つの全く異なる例によって説明します。

それは、溺れさせようという意図を持って、ある子供を水場に突き落とした男の行為、そして、その子供を救おうとして自らの命を犠牲にする男の行為です。両方の男の行為はフロイトとアドラーの理論によって同じように簡単に説明できます。

フロイトによれば、1人目の男は心の抑圧に苦しんでいたことになり、2人目の男はサブリメーション(衝動や本能の自然な表現を社会的に容認されるものに修正すること)に達したことになります。

一方アドラーによれば、1人目の男は劣等感に苦しんでいたことになります。自分に対して自分は何かできる人間だということを証明しようとして犯罪を犯したのかもしれません。そして同じように2人目の男も自分を証明するために子供を救ったのだと説明できます。

どちらの理論によっても説明できないような人間の行為を、私はいまだかつて見たことがありません。まさにこの事実、つまりこれらの理論は必ずどんなことでも説明できる、ということが問題なのです。このことによって、こうした理論の支持者はいつも自分たちの理論には間違いがないと自信を持って議論できるようになるのです。

そしてこの明らかな強さが実は弱さなのだと私は気づき始めたのです。

ポッパーはこれらの理論をアインシュタインの相対性理論と対比させました。相対性理論は、具体的で検証できる予測をしました。いくつかの条件のもとで、間違っていることを証明できる予測をしたのです。

検証できる条件がそろったとき、アインシュタインの予測は正しいことが証明されました。つまり、間違っていることを証明しようとする試みによってこの理論は証明されたのです。

この理論の最も重要な性質は、この理論は間違っているかもしれないことを証明するために必要な土台を提供したのです。今日に至るも、物理学者たちはこの物理的な世界をより正確に理解するためにこの理論はどこで辻褄が合わなくなるのだろうかと追求し続けています。

この理論もいつかは不完全だと証明されたり、全体の現象のうちの特別な一部の現象を説明できるだけだと証明されたりするのかもしれません。それでも、検証ができる正確な予測をすることができ、それが現実的な大発見となったのです。

これが、検証できることが科学には必要だという所以なのです。ポッパーの言葉を使うと、

もし観察した結果、予測されたような効果がどこにも見当たらないのであれば、その理論は単に反証されたということである。

これが意味するところは、良い理論というのはリスクを持つということです。間違っていることが証明される具体的な条件を持っていなければならないのです。

ポッパーの必然的結論

ポッパーは目の前に提示された理論が科学的なのかどうか考える上で役に立つガイダンスを提示します。

  1. 確認したり証明するのは簡単。どんな理論でもそれを確認するための事象は探せば見つかる。
  1. 確認した結果が有効なのは、それがリスクを負った予測の結果であるときだけだ。理論と辻褄が合わないイベントが起きることを事前に予測し、実際そうしたイベントが起きればその理論は反証されるということだ。
  1. 全ての「良い」科学的理論は、「こうしたことは起きえない」という禁止項目がある。より多くの禁止項目があれば、それはより良い理論と言える。
  1. 現実的に起きうることによって反証される可能性のない理論は疑似科学だ。反証の余地がないという性質は、多くの人が考えるような美徳ではない。それはむしろ悪徳だ。
  1. 理論を検証するということは間違っていることを証明しようとすることで、反証しようとすることである。検証可能というのは反証可能という意味である。どれだけ検証可能なのかには違いがある。ある理論は検証しやすいだろうし、その分反証されやすいだろう。そうしたものはより多くのリスクを負っているということなのだ。
  1. 確認したエビデンスは、しっかりとした検証の結果でない限り真剣に受け入れられるべきではない。しっかりとした検証が行われたというのは、その理論が間違っていると証明できなかったということである。
  1. 検証可能な理論が間違っていることがわかったとき、その理論を支持する人たちはそれでも支持し続けるだろう。例えば、何らかのその場しのぎの追加的な仮定的な理屈を持ち込んだり、または反証を逃れるために後から理論を解釈し直したりするだろう。こうしたやり方はいつも可能である。しかし、それはその理論が反証されることから救ったかに見えるが、実はその科学的な地位を破壊または貶めるという対価を払うことになるのだ。

これらを要約するとしたら、科学的であるかどうかの基準はその理論が反証可能、反論可能、または検証可能かどうかということになります。

ポッパーはフロイト理論が正しいと証明するのも、正しくないと証明するのも不可能だと言います。というのもフロイト理論は検証可能な予測をすることがないからです。ひょっとしたら、その理論の中には何らかの真実があるのかもしれません。しかし私達にはそれがわからないのです。ポッパーに言わせると、これこそが科学と疑似科学を分ける決定的な境界線なのです。

あとがき

このコロナパンデミックの3年間において、それはマスク着用やワクチン接種の要請または強制、蔓延防止という名のもとでの飲食店の早期閉店、アクリル版、帰国者の隔離、など様々なコロナ対策が行われました。それらはどれも科学的な根拠のあるものであるとして、疫学や感染症の専門家、政府、メディアによって推奨または強要された対策でした。

しかし、こうした対策はほんとうに科学的ものだったのでしょうか。

例えば、マスクの着用がコロナのような呼吸器系のウイルスの感染を防ぐというエビデンスがないことは、このコロナパンデミックの前から世界各地でそれまでに行われた多くのテストをもとに分かっていたことでした。(リンク

今回のコロナウイルスの感染という特別なケースに関しても、クオリティの高いテストがパンデミックの始まった2020年にはすでに行われ、やはり感染を防ぐというエビデンスがないことがわかっていました。(リンク

しかしそれでも、メディアに出てくる感染症の専門家、医療の専門家たちはマスクには効果があると主張し続けました。彼らは上記のようなテストが世界各地ですでに行われていること知っていてもその結果を無視する、または自分に都合のいいように解釈しました。例えば、「感染を防ぐエビデンスがないというのは、感染を防がないということではない」、「感染を防ぐ効果はなくても、周りにウイルスを撒き散らさないようにする効果はある」と言った具合です。

しかし、こうした都合のいい主張にはどれも科学的な根拠がない、ということを都合よく忘れがちです。

逆に自分に都合のいい観察データのみを引っ張ってきて、自分の主張に根拠をもたせるというものでした。

それでも無理なときは、「もしこの対策を行っていなければ、もっとひどくなっていた。」という言い訳によって、一般の人達を煙に巻いていきました。

「もしこの対策を行っていなければ」というのは現実世界では検証不可能ですので、間違っていると証明することはできません。このように言葉の上ではいつも正しいと解釈可能なのであれば、これは科学的と言うよりも宗教的と言わざるを得ません。

ある対策を行い、うまくいっているのであれば続ける、いってないのであれば軌道修正するといったように、理論を現実世界で検証し学んでいくことができないのであれば、それはただの「机上の空論」でしかなく、私達人間がよりよい意思決定を行い、よりよい未来を築いていくためには何の役にもたちません。

医療、健康だけでなく、経済、社会、環境など多くの分野で、様々な専門家が自分たちの理論があたかも科学的であると主張し、それがメディア、さらにソーシャルメディアによって既成事実かのように拡散されていきます。そうした情報の波に流されず、踏みとどまり、目にした情報は正しいのかどうか判断し、行動していくことが私達一人ひとりに求めらる、そういう時代に私達は生きています。

カール・ポッパーの言う「反証可能性」があるものだけが科学であり、それ以外は疑似科学だ、という白黒をつけるような主張には異論もあるでしょう。

しかし、科学的な根拠もないのにあたかも科学的であるかのように主張する人たちが絶えない中、何が正しく、または正しくないかを見極めるにあたって、この「反証可能性」という考えは非常に便利なツールではないかと思います。

今度、メディアに出てくる専門家がある主張をしたとき、それが検証可能なのか、さらに正しかったらどういう状況が期待され、間違っていたら間違っていたと言えるような基準を持っているのか、と考えてみて下さい。こうした基準を自分の中に持つことで、何が真実なのかよくわからない混沌とした世の中においても、真実に一歩づつ着実に近づいていくことができるようになると思います。


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